
『われゝ東洋人は何でもない所に陰翳を生ぜしめて、美を創造する。美は物体にあるのではなく、物体と物体との作り出す陰翳のあや、明暗にあると考える』(陰翳礼讃 引用)
電気、瓦斯(ガス)、水道が一般化し、夜が明るくなった昭和初期、日本家屋に電燈がともって座敷の隅々まで照らされるようになりました。
そのいっぽう、日本の暮らしに闇や陰、といった「暗」がなくなったことを嘆きつつも、客観的に指摘する谷崎潤一郎氏の随筆です。
この「陰翳礼讃」は、漆器について谷崎氏が感じるところを詳しく述べているので非常に興味深いものがあります。
………漆とは不思議なもので、漆そのものが闇を抱えている。
例えば電灯ではなく燭台の明かりのほの暗い座敷の中でいただく椀もの。
座敷の空間の闇と、沼のような深さと厚みのあるつやの椀、その熱い汁の椀が掌で赤ん坊のような重みとあたたかみをたたえ、蓋を開けてその湯気とともに闇と同化した汁を口に含む…。
なんともあやうげで、しかも惹き付けられる光景なのでしょうか。
まるで、その場の闇、漆のかかえる闇、椀の中の闇が一体となり、不思議なものとなって舌に乗り、そして深く深く臓腑に染みわたるかのようです。
華麗な金蒔絵の漆器も、こうした日本家屋の「闇」で塗られた空間ではけっして俗悪ではなく、かすかな光の中で厳かな姿を見せてなんとも侵しがたい景色となります。
漆器のつやもこうした住空間の中でこそ、しんみりとしたものに変わり味わい深いものになるのです。

「陰翳礼讃」で述べられる闇の中の美は、暗い大座敷の奥の金屏風の沈痛な黄金色、老僧侶の皮膚と金襴袈裟の対比、部屋の奥のお歯黒をした女の顔など、はっとさせられる光景ばかり。
鮮やかに精巧に作りこんだものを闇で塗りつぶし、ほんの少し見せることでその余韻を楽しむ、見えない部分を想像して浸る、なんともぜいたくなことです。
そして、この「陰翳礼讃」で特に注目してほしい興味深いことは、谷崎氏の指摘する東洋と西洋の文化の相違のこと。
谷崎氏は「東洋に西洋とは別の独自の科学文化が発達していたら、社会の有様ががらりと変わっているのではないか、日用の機械、薬品、工芸品も国民性に合致するものが生まれていたのでは」と指摘しています。
世界のスタンダードになったすべての便利なもの、これは西洋から発したもので、元来、日本人の肌には合わないもの。その“借り物”の基準に東洋人である我々は合わさざるをえないので非常に「損」をしている。本来の色姿を歪めて合わせているのだ、と。
昭和8年執筆、今から70年ほど前の随筆です。
当時、谷崎氏が「明るい」と感じた昭和初期の電燈も、今はレトロで人々がノスタルジックを感じるアイテムとなり、世の中は信じられないほど明るくなっていることを思うと、日本の変わりようになんだか複雑なものがあります。
※中央公論新社