来月の1日(4/1)で、このブログを始めてまる2年が経ちます。
この日記を書き始めた時、まず最初に書いたのは「漆かぶれについて」でした。
おそらく、世間一般の方達は「漆かぶれ」について、そしてその「漆かぶれ」からくるイメージについて、漠然とした不安を持たれているだろう…と思ったからです。
数年前、
とあるミステリー番組で「漆樹液」が殺人事件の小道具に使われたことがあり、当時の私はひどく憤慨してそのことを話題のきっかけとして取り上げたのですが…。
のちに「漆」の陰にどことなく感じる「負」のイメージ… たいへん魅力的だけれども、たとえていうなら翳のある美女のような、そんな説明のしようがない微妙な陰湿な観念が、ミステリーを盛り上げる小道具にチョイスされる理由の一つになったのだ、だからいくぶんは仕方がないのかもと多少は思うようになりました。
決してあっけらかんとはしていないイメージ。
いったいそれはどこからくるのでしょうか。
江戸時代の医師、藤井好直による「片山記」という書があります。
現在の福山市近辺(備後国沼隈郡山手村)に住んでいた藤井好直は、地元にはびこる謎の風土病から住民を救済できないものかと苦心しますが、ついになし得ず、晩年「何もできなかった」と無念の思いを書き残して明治28年に世を去ります。
『西備神辺の南、川南村には、田の中に二つの小山があって、一つを碇山、一つを片山というがこの片山は「漆山」ともよぶ。はるか昔、この辺りは海で、漆を積んだ商船がこの山に碇泊していたところ、大風がおこり船が転覆してしまった。それからこの山を「漆山」と呼ぶようになったという伝説がある。昔は、ここを通ったものはみな漆にかぶれたそうである。最近二、三年のあいだにも、春から夏への季節の変わりめに、土地の人が田を耕しに入ると、足のすねに小さな発疹ができ、じつにたえられぬほどの痛さかゆさであった。牛や馬も同じような目にあうのである。これは昔の「漆の気」が残っているせいだと人々は思っている』
『さてこの病にかかると下痢や嘔吐に苦しむ者が多く、顔はしなびて黄色になる。寝汗をかき肉は落ち、脈は細くなりちょうど肺病にそっくりである。血やうみをくだす者もあり、しばらくすると四肢は削られるようにやせるのに、腹だけはふくれてツヅミのようになる。(略)そして最後には足に浮腫みがきて落命するのである』
『この病気のために死ぬ者は三十名を越し、牛馬も数十頭倒れた。(略)はたして「漆の気」にかぶれたためか、それとも水田にひたってその湿気にあてられたものか、私には判断することができない。私のみならず、村人はそれぞれ医者にかかるので、幾十人もの医者がここで治療しているが、だれもまだこの病を治したという話は聞かないのである。…』 つまり、かの地には昔、漆を積んだ船が難破したという伝説があって、そのせいか田植えをする時分に水につかる手や足が非常に痛がゆくなる。住民は「漆の気」のためだと固く信じているが、その後、やせ細り腹部がひどい水腫になり苦悶のうちに命を落とす、というのです。
藤井好直はその病を「片山病」と呼び「水田に入った時に手足にかぶれをおこす毒物であることは間違いないが」としつつも「その原因が何であるか、東西の医学書をひも解いてもいっこうに分からぬ」と嘆くのです。
さて、漆に少しでも詳しい方は「はて?」と思わないでしょうか。
だって漆にかぶれてこんな病気になるわけないし、何より難破した船に漆が積んであってそれが流出したとしても、それがもとで長年にわたってそこに住む人々がかぶれ続ける、というわけがないからです。
結局、この不気味な病はなんだったのでしょうか?
それはミヤイリガイ(宮入貝)を媒介とする
日本住血吸虫の寄生による症状だということが明治37年に、研究の結果わかったのです。
つまり、皮膚から感染する未知の寄生虫症だったのです。(現在は撲滅)
当然ながら、漆はまったく関係なかったということなのですが、当時の人々の無念や不安はさぞかしだったろうと思います。
毎年、田畑に入るとおこる不気味で猛烈なかぶれ(虫の幼生が皮膚から侵入する反応なのですが)死の病の予告として人々をいいようのない不安に陥れたことでしょう。
今も昔も、漆の仕事はそんなに一般的な職業でなかっただろうし、漆に対する観念といえは「よく分からないけどひどいかぶれを起こす」ということくらいだったのかもしれません。
時代は違えど、現在とあまり変わらないくらいの認識だったのではないでしょうか。
改めてそう考えると「ミステリーの小道具に使われたくらいで目くじらたてなくても」と思う自分と「いまいや、ただでさえ形見のせまい漆なのに、よりイメージをあやしくすることはいけない」と思う二つの心があって、定まらぬ今日この頃なのです。
※追記 ------------------------------------------------------------
なお、藤井好直は、晩年の「片山記」の再記の終わりごろに「聞けば西洋に分理の術あり。術をもってその土質を分理すれば、毒の正体が分かるかもしれない。正体が分かればこの病を治す方法が見つかる。そうすれば数十年の痼疾が一朝にして氷解するだろう。村びと達に幸いが訪れることを祈りたい」としています。
結果としては、片山病は藤井好直の想像をはるかに越えた虫害だったわけですが、没後9年で岡山大学で片山病のネコから虫の検体が発見され、大正2年に原因が解明するのです。しかし撲滅までまた長い月日がかかるのですが、多くの方のたゆまぬ努力で、現在はこの病で苦しむ人はいなくなりました。
人と病の苦しい歴史の一端にふれ、これも忘れてはならない記憶だと思いました。
posted by 宮崎佐和子 at 22:59|
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漆かぶれについて